昭和五十七年二月九日 朝の御理解
x 御理解第三十五節 「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」
家庭に不和はない、という事は信心させて頂くものの、ま、根本のように教祖様は教えておられます。ためには元日の心の状態とか大晦日のような心でというふうに言うておられますけれども、元日のような心になろう、大晦日のような心になろう、というふうに言うたり思うたりしただけではなかなかそれは心からのものではありませんからね。だから心から、その、こういう心が、元日のような心でもあろうか、と。こういうような心が大晦日のような心の状態じゃないだろうか、と、いうようにですね、実感として頂けれる為におっしゃっておられますように、信心は日々の改まりが第一じゃ、とおっしゃっとられる。
日々のこの改まりが、日々新たに出来ていくところに、自ずと、ね、いわゆる有難い心が開けてくるんですね。ですから家庭に不和がない、という信心の根本であるところのおかげもまた頂けれるわけです。家庭に不和がない、という事。ならどういう事になるか、というと一切のおかげの頂けれる受け物が家庭に出ける、という事になるのです。だから家庭が不和ではない、円満である、というだけじゃないです。その、教祖様が教えられる家庭円満というのはね。日々の改まりが第一だ、という事。そこから生まれてくる元日の心である、大晦日の心である。ね。
そこからまあ円満というよりもむしろ拝み合いの生活とか家庭とか、という事になる。ならそういう拝み合いの生活とか家庭円満とかっていうのが勿論それでも有難いけども、そういう心がね、そういう家の状態が、家全体がおかげり受け物が出来る、という事なんですからね。家庭が円満である、ね、というだけでも、ま、幸福ですよ。けども教祖様が教えられる、ならここで第一言っておられる、その、元日の心とか大晦日の心とか、というと、だからそこだけに、ね。
今日はもう元日の心で過ごそう、とか、今日は大晦日のつもりで、もうあれもこれも片付けてきち、として一日を締め括ろう、とか、という事の精進とか努力だけじゃいかんのです。そうせずにはおれない心が日々の改まりにあるのです。ね。その、日々の改まりという事が、ね。いわゆる、限りないおかげ、ね、限りない有難いもの、ただ、家庭が円満、というよりも限りない有難い家庭としてですね、育っていくのです。
ですからもうこれは、おかげは絶対育っていくんです。とものうてくるんです。ね。それこそ元日の心以上の心とでも言いましょうか、ね。ただ、ね、兎に角有難い、というのですから、ね。有難い、いうならば拝み合い、というのですから。そういう生活が出来ていく事の為には、私は今日初めてここに気付かせて頂いたんですけど。きあ元日の心、大晦日の心というとこだけにいつも焦点をおいて考えましたけどもね。どういうわけ一番初めの所に信心は日々の改まりが第一じゃと言うてあとを言っておられるか、という事が今日わかったような感じが致します。
だからどうしてもその、日々の改まりが第一、という。そこから自ずと有難い心が生まれてくるんだ、と。自ずと家庭は、いうならば拝み合いの、いうならば家庭が、ね、作るのじゃなくて、出来てくるんだ、という事になりますね。祈念詞の丁度真中の最後のところに教祖金光大神と天地金乃神様のあいよかけよ、の生活はじまり、というところがありますよ、ね。天地の親神様と教祖の神様のあいよかけよの生活がはじまった、そこから金光教が生みなされたのです。ね。
天地と教祖様の、いうならば交流なんです。あいよかけよの生活始まり、そこから金光教が生まれた、教えの全てが生まれた。しかもその教えも、ね、いうならば段々容易いところから難しい狭いところから広い深い、もう限りないみ教えが生みなされたんです。ね。最近教団でも、頂く信心から生みなす信心、といったような事が言われますけども、ね。先ずは、ね、天地とのあいよかけよの生活始まり、というところにならないと、ね、生みなされるはずありませんよ。一人では生みなされません、ね。
天地と教祖の神様のあいよかけよの生活が始まった。そこから金光教が生まれた。そこからすべての教えが生みなされていった。昨日、先達てから奥さんが、はじめ東京の、東京じゃったかね、埼玉やった、奥さんが参拝して見えて、まあ大変喜んで帰られて、それを御主人に伝えられた。ほいでまた御主人が御参拝になった。長年の信心。金光教の中にその、どこをどう求めてよいかわからなかった。ところが合楽で説かれる天の心、地の心。初めて金光教の信心が、いうなら天の心、地の心を聞かせてもらい又、読ませて頂いて初めて金光教の信心の神髄にこう触れかかって来ておられる喜びを昨日手紙にして竹内先生に来ておりました。
ですからね、その、神髄に触れる、という事は素晴らしいですよ、ね。ただ金光様はおかげを頂くから、というだけで沢山信者が集まっておるという教会も沢山あるんですよ。けれどもそんなら御比礼が輝いとるげなけん、というて行ってみたところがその、触れるものがなかった。ね。ただ人が沢山集まっておる、助かっておる、という事だけれどもその、いうならば、お道の信心の神髄と思われるものに触れる事が出来なかったけれども、合楽におかげ頂いて天の心、地の心を聞かせて頂くようになったら、そりゃいうならどういう事か、というと。
今日も私はそれを皆さんが祈念詞を上げとられる中からふっと気付かせて頂いたのが、今の、ね。教祖の神様と天地の親神様との間にあいよかけよ、の生活始まり、というところから始まってるんです。いわゆる天地との交流が始まったところからです。だからここんところを根本にし説かなければ本当の金光大神にかけられる天地の親神様の願い、というものは成就しない、と思うですね。そんならその、教祖の神様が天地金乃神様とのあいよかけよの生活が始められたその天地金乃神様のお心というのが天の心地の心に段々解き明かされていく、いっておるのが合楽理念である。ね。
もうどこまでも天地日月の心になること肝要と言われるそこんところの追求です。ですから合楽理念は助かりの理念と同時に、ね、もう絶対の理念だ、と、ね。いうなら人間が幸福になっていく為の根本原理とでも申しましょうか、ね。いわゆる、完璧の域に入った、と言われるのがそれなんです。しかもそれが完璧を目指してね、繰り返し続けられていく、というところに私、合楽の魅力がある、と思うです。
これは、なら、私なら私の信心が高度化していけばいくだけもっと素晴らしい本当な事に触れていく事でしょう、ね。人間が幸福になれれるその、根本原理であるところの、ね、原理をふんまえてのお互いが日常生活にならなければ駄目です。ね。ためには、ね。私共が新たなものに触れる、という事は私共のその、心そのものがいわゆる新でなければいけません。フレッシュです、新鮮です、ね。その、日々新鮮、三代金光様はその事を日々が新です、とこうおっしゃった。
どうして日々が新な心になれるだろうか、日々が改まりです。も少し極めた言葉で言うと、新はね、日々の改まりが第一という事はね。日に日に生きるが信心なり、という事になるのです。もう日に日に生きる、という事が信心なんだ。な、その日に日に生きるという事が信心、という事をもっと詳しく言うと、日に日に死するが信心、という事になるんです。日々自分というものを葬っていくんです。
ですから明くる日はまた新たな自分が生まれているんです。ね。それをなら容易う言うと日々の改まりと、いう事になるのです。 その日々の、新しい命はね、より新しい本当の事を追求する事にもなれば又は、ね、それをいうなら新鮮な心で、同じ有難い、というても、ね。古い有難さと新鮮な有難さとは違うでしょうが、皆さん。じいーっとこう腹の底から込み上げてくるような有難さ、あれが新鮮。
有難ち思うとります、ち言うて言うのはあれは古い有難い、です。ね。本当に合楽に御神縁を頂いたという事がこんなにも有難い事なんだ、という事を日に日に新に感じれれる為に、私はやっぱり日参がいる、と思うです。それに触れられるんです。日参してくると、ね。そして教聴です。教えを頂くんです。ね。その教えが心行の上に表わされるんです。ね。日参、教聴、心行、信行。しかも同じ家業の行であっても内容が違ってくるんです。取り組み方が違ってくるんです。
家庭に不和がない、というだけではなくて、本当に拝まずにはおれない、拝み合わずにはおれない、ものが生まれてくるんです。そこにいうならばおかげの受けられる、いうならば家の受け物が出けるんです。日々に、ね。嬉しう楽しう暮らしていく、という事が、ね、家庭に不和のない元である。その家庭に不和のないその元が又おかげを受ける元にもなるのです。よく合楽に十日も通うて来んともうちょっと感じが変っている、とこういう。毎日参っておるとそうでもわからんけどね。時々参ってくると、もう本当にあの、それこそとちめんぼう振るごたる説きがある。ね。
合楽ではこう説かれる、というとがもういうならば本当から本当へ求め続けておるのですから又、より本当なものがこう語られたり行なわれたりしておるわけなんです。先達てもお話に見えた先生が応接間で若先生にいろいろ二人で話ておりました。横で聞きよったんですけど。ここの朝の御祈念の説きのあの、祈念詞。あれはいつからあんなふうになさっておられるのですか、ち言うてから聞きよんなさいました。もうあれは本部の方から指導に見えました。もうその翌日からあれを実行しております。
いささかまあ驚いたような表情をなさっておられました。より本当な事だ、とわかったらもう、ね。もう即刻でもそれを改めて行くこうとする生き方なんです。そしてその事についてまあそれこそ、人にもよそにも話されないような素晴らしい事を私は、若先生と二人で話しておられる中から聞かせてもらいました。ははあそういう事ですか、いよいよ間違いがない事ですなあ、と言うてまあ思うた事でございます、ね。より本当な事。
先日、泉尾の教会から毎月こういう御本を送って頂くんです。立派な御本が毎月出るんです。それに先生がお書きになったのが表紙になってます。真実一途と書いてある。皆の助かりわが祈り、と横に小さく書いてある。皆の助かり、もうみんなが助かっていく事の為の自分の祈りだ、と。自分はもう真実一途なんだという意味じゃないでしょうか、ねえ。私はこれ見せて頂きよったら真実一路という言葉がありますね。
真実一路、一路とは一つの路、道路の路ですね。だから私は佐田先生、こん一途ち言うのは大体正確にいうたらどういう意味じゃろか、て言うて私は申しました。早速字引で引いてくれました。はああの人は一途な人だ、とこういいますけどね。正確に、字引で引きますと、ね。一つの事を思い込む事だとあります。ね。泉尾の先生はこの思い込みが、信心はこの思い込みの強い人が本当な事を思い込むという事がおかげの秘訣です。秘訣というよりも思い込むまでがまあ大変なんですけどね。
これが本当だ、誰が何と言うても本当だ、と思い込む事。それがいわゆるおかげになって現れてくるものです。本当な事であれば、ね。そういう一途の心のお方と思うですね。泉尾の先生やっぱり、自分でも書いておられます。真実一途の先生。教祖様でもやっぱしそうだったと思いますね。もう他の事は何もない。もう人が助かる事さえ出来れば、という一途な願い。ところが教祖の場合はその一途な願い、という事だけではなくて、神様との交流がいつもあっておりますから、ね。もうそれこそびっくり仰天するようなより本当な事を教えられるたんびんに教祖のお心というものが変っていっておられますですね。
私はね、思うんです。私も大体一途な所がありますけれども、私の場合は真実一路だと思うのです。ね。真実という事は本当な事だ、ね。私は言っておる、これが本当な事だよ、と言っておる事が明日は本当ではないのです。私の場合は。より本当な事だって聞いたら、もう明くる日はそれに切り替えていっとるです。そこが、ね、違う、と私は思いました。真実一途と真実一路の違いです。ね。ですから合楽の場合はいつも真実から真実を追求し続けておる。合楽理念が助かりの理念として絶対のものだ、と。もう完璧のものなんだ。ね。完璧の助かりの理念だ。
しかもその理念がです。これは私の信心が向上していくに従って、教祖の神様の御信心が向上されるに従って、天地の親神様はより本当な事を教祖の神様に教えていかれた、ね。だから教祖の神様の御信心もやっぱり真実一路でおありになった、と。ふつうでいう一途、もう兎に角思い込みが強いけんどげん誰が言うたっちゃこれが本当ですよ、ち言うても、うんにゃ、ち言うてから言う事きかん人が沢山お道の中にありますね。特に偉い先生方の中に多いです。本当でも、いや本当じゃない。本当であろばってんより本当の事言うても耳も貸さない、という人があります。これでは進歩がないです。教団の進歩というてもそうです、ね。
だから私は、これも内田先生に一番最後に御挨拶の時に申し上げた事でしたけれども、兎に角金光教は百年間今日まで続いてきた。ね。けれども今迄の通りであったら今迄通りの金光教だ、いくら百年祭に頑張ったところで。だから今迄の金光教ではいけないからそこに今迄の金光教のイメージというものがアップされて、ね。よりおかげの頂けれる本当な事へ飛躍していかなければいけない、という意味の事を話した事です。ね。
皆さん、合楽で勉強なさる。もう合楽の信心なもう有難くという事ばっかりだ、とか、ね。もう成行きを大事にしさえすればよい、とか、と、まあ、そいば覚えただけじゃ。それはそうなんです。けどもいよいよその有難くなっていく事の為にもです。いよいよ成行きを尊ぶ大切にさせて頂く、という事であっても、その内容が、ね。こちらが日に日に新に変ってまいりますと、そこのいうなら現れてくるものも変ってくるんです。
本当に、いうならば、ね。期せずして、元日のような心になろう、と思わんでも自ずと自分の心の中に、です、ね。日に日に、いうなら新な心が生まれてくる。その新な心でおかげをキャッチしていくというのです。今日は私はここの元日の心と大晦日の心、というような心にならなければならん、といったような事では、ね。これは普通の、まあ修養話の中からでも聞き取る事が出来る、と思うんですけども。
教祖の神様は初め日々の改まりが第一、と教えられてるところに教祖金光大神の信心の素晴らしさがある、と思うんです。日々の改まりというと、そこんなからなければね、この中に自ずと、いうならば、ね。有難い、という心も御礼をいう心も、いうなら元日の心も拝み合うていく生き方も、いうならば本当の意味においての天地との交流というような事になってこない。
教祖の神様が天地金乃神様と、ね。あいよかけよの道が開けた。あいよかけよの生活が始められるようになられた、という事は、私共もやっぱりです。教祖の神様のみ教えをもとにして天地金乃神様と、ね。あいよかけよの生活が始められるようなおかげを頂く為に、ね。元日の心、とか、大晦日の心、という事が必要なんです。もう本当は元日の心とか大晦日の心以上のものなんですよ。ね。いうならば斬新な有難い、という心なんですよ。
それには日々の改まりにみるより他にはない、のである。皆さんも信心を段々なさっておられて合楽に傾倒されるに従って一途なものが生まれて来ておる、と思います。ね。合楽一辺倒という事を申します。合楽に傾倒するのです。ね。ですからその一途な心が有難いのですけども、その心もです、ね。より本当のものに触れた時にはより本当な事へ、いうならばかわっていくのが私、真実一路だと思います。
その、しかもその真実一路といのはもう限りないです。合楽理念が完璧の域に入ってしかもそのいよいよ完璧を目指して進むという事はもう限りがない、と言われるのと同じ事だと思いますね。昨日≪埼玉≫からの御信者さんのお手紙じゃないですけれども、初めて天の心、地の心が分かり出した。ここに自分が金光教によって助かろうとする、求めておったいわゆる神髄に触れる事が出来たような気がする。これをこれから勉強していかねばならんという意味の事を言っておられるように、この勉強はもう限りのないものだと思いますね。どうぞ